2013年05月09日

小説「我が輩は人である」

 暫く書かなかった。他の場所で書いていたからだ。今日は今、書き始めた超ジャンルの文章を紹介してみよう。これは現在進行中の試みである。何らかの反応を頂ければ有り難い。それでは以下に掲載する。

 小説「我が輩は人である」−第1回−

 我が輩は人である。無論、名前はある。が、いわゆる有名人というわけでも無いので、殊更記さないことにする。
 名前が無くて困るのは、私に何らかの関わりのある一部の人たちに過ぎないであろう。
 だから、このまま進めることにしよう。

 我が輩は人の中でも、いわゆる老人、或いは高齢者、または老残の厄介者という分類に属する生き物ということになろう。老人は一般に、何故厄介者とされるのであろうか
?それは結局、世の中から、もうお呼びでは無い…、つまり必要とはされていないからだ。すなわち、役立たずの無用の長物という立場に在るからである。「十把一絡げにされては困る」という御仁も居られるやも知れぬ。まあ、適当な代わりが見当たらず、止むなくご老体を鞭打たせずには置かない環境にでも踏み止まざるを得ない立場に居られる方もあるかも知れない、何と言っても世の中は広いものだからね。ま、そういうご老体は例外として話を進めよう。

 何と言っても、自分で自分のことが処理できなくなったら、それはもう間違い無く「厄介者」となった有力な証である。こういった状態となるのは、特殊な状況で無い限り
、「長生きし過ぎた」結果なのである。

 我が輩の母は百歳を僅かに超えている。食欲もあり、排泄も、常に順調というわけでは無いにせよ、通常は自然に行っている。しかしながら、既に自由に行動したり、自分
の意志通りに肉体をスムーズに機能させて日常の諸々を殊更意識すること無く、自然にこなせるという状態では、決して無い。つまり、筋力も衰え、骨も老化し脆弱化しているので、正常な強度を保ちながら機能を円滑に発揮させることは出来ない状態となっている。ざっくばらんに言えば、四肢を正常に動かして行動することは不可能というわけだ。

 言い換えれば、自力でトイレに行ったり、排泄を済ませて処理することなど他人の手を借りなければ到底出来ない、ということだ。

 ここで考えて置いた方がよいのは、たとえば肉体的にハンディの有る人たちには、当然老人以外の人たちも含まれるわけだ。或る一部の身体的機能以外は未だ若く、これか
らの成長が期待される人々も存在するであろう。成熟した人で、そのハンディ以外は並外れた能力を備えている人たちも存在する。具体的に著名人の名を挙げるなら理論物理学者のホーキーング博士が先ず頭に浮かぶ。彼が人類にとって非常に有用な存在であることは、我が輩がくどくど説明するまでも無かろう。

 従って、自分の日常生活が自力で遂行不可能、というだけの理由で無用の厄介者と断ずることは当然ながら出来るわけが無い。
 それでは、どんなケースの場合、そう結論せざるを得ないことになるのだろう?(続く)
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posted by イベント・わかやま at 10:23| 和歌山 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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